カレーライスブルース

カツン!
店中に鋭い音が響きわたった。
考えごとをしていたせいで、ついスプーンを持つ手に力がはいってしまった。それとなく店の中をみまわすと、幸いなことに音を気にした人はいないようだ。店内のカップルは話に夢中でそれどころではないのだろう。ただ一人、カウンターの中のバーテン以外は。
「どうかされましたか?」
カウンターの向こうから、そっとバーテンが話しかけてくる。腕時計に目をやりながら、なんでもない、と軽くうなずいてみたが、私はそんなに挙動不振なのだろうか?バーテンはまだ親しげに話をふってくる。
東京近郊の繁華街、とあるビルの地下にあるバーに私はいた。夕方から降りだした雪は、ネオンが下品に光る街を少しだけ上品な街に変えていた。夜も更けた今頃は寒さも厳しくなっていることだろう。
「うちのカツカレー、評判いいんですよ。ずいぶん前ですが、カツの大きさが話題になりまして」
バーテンは器用にグラスを磨きながら、すこし誇らしげな笑みを浮べて壁にはってある雑誌の切り抜きに目をむけた。このあたりではメジャーな情報誌のようだが、かなり色褪せている。
「カツ自慢の本格派カレー、か。なるほどね、確かにカツが大きい。このルゥもこくがあって、なかなか好きな味だよ。」
「ありがとうございます。」
見事にバランスのとれた笑みだ。好感以外の何も感じとれない、それでいて自然な笑み。抑制と弛緩のバランスが、これしかないというところでキチンと決まっている。だが、私の目の前にあるカレーの皿を目にしたとたん、そのバーテンの笑みは崩れ、こちらを心配するような位置にぴたりと納まる。その顔のバランスも素晴しい。
「お気に召しませんでしたか?」
私の皿の上には、ライスは一粒も残っていない。そのかわりに、ルゥがまだ半分以上残っていた。ルゥの真ん中の大きなカツもそのままだ。
「ああ、いや、そういうわけではないんだ。ルゥを残してしまうのは私の癖みたいなもんでね。」
「癖、ですか?」
安物のライターで煙草に火を付け、時計に目をやりながら一息いれる。
「へんな癖だろ。昔からルゥと御飯をバランスよく食べるの苦手で、いつもどっちかを残してしまう。いや、残すように食べてる、といったほうが正しいかな。バランス良く食べるのは嫌いなんだ。」
予想どおりバーテンはけげんな顔をする。表情のバランスも少し崩れてきたようだ。
「昔からよく、バランス良く食べなさい、ちゃんと計算して食べるのよ、なんて言われるだろう?あれが大嫌いでね」
「わかります。私の母はかなり口うるさくて。心配してるんでしょうけ…」
「いや、口うるさくはなかったな。」
バーテンを遮ると、私はまだ長く残っている煙草をゆっくり揉み消した。そして、再びスプーンを手にとり、バーテンの顔を眺めながら続ける。
「ただ、、いや、気を悪くしないでくれ。このカレーはうまいよ。それ以上にバランスよく、というやつが嫌いなだけさ」
「バランス、ですか。それがお嫌い?」
「バランスなんて、本当はどこにもありはしない。肝心な時には必ず何かが足りないんだ。」
カツン!
カツをつついていたスプーンが、狙いを外して皿を打った。バーテンに私のとびきりの笑みを返すと、バーテンはついにふっと目をそらした。腕時計の針は11時30分を示している。硬く冷えたカツはつつかれすぎて既にボロボロ。午後11時30分。
ラストオーダーをつげるバーテンに首を振ると、私は会計をすませ素早く身支度を整え、そして店を出た。
夕方から降りだした雪は、ネオンが下品に光る街をすこしだけ上品なホワイトクリスマスに変えている。私の体にも雪がつもる。しおれてしまった花束にも。いまにも崩れそうなつくり笑いにも。
メリークリスマス。